第二十三話前編

 

目を覚ますと、そこは見知った天井だった。

目覚まし時計のアラームが鳴り響き、窓からは朝日が降り注いでいる。

黒い本棚には教科書をほどほどに、漫画本がずらりと並べられている。

床にはこの前最新作を買うために予習しようと、ゲームソフトが散乱していた。

「……あれ?」

明らかにこの空間は、僕の部屋だった。

しかし――となると、疑問が幾つか浮かんでくる。

今までの物語は、長い夢だったのか?

確かに、夢というのは自分が実際に経験した時間よりも長い時間の夢を見ることがあるのだという。それは感覚の問題というよりも、錯覚の問題だといえるだろう。

いずれにせよ、今はこの夢について長々と考える必要はない。

もし今考える最重要課題があるとすれば――。

「おにーちゃん! 早く起きてよ! 学校、遅れちゃうよ!」

そう言って部屋に突入してきた妹の言葉を聞けば解る通り、学生の本分を果たさないといけないことだろう。

そう思って僕は深い溜息を吐いたのち、ベッドから起き上がった。

 

◇◇◇

 

朝食を食べて、学生服に着替えて、外に出る。

夢の中の出来事にしてはあまりにもリアルだったから、この制服を着るのも随分と久しぶりのような気もする。

そんなことを考えていると、隣に歩いている妹が僕の顔を見て首を傾げる。

「おにーちゃん、まだ眠いの? 何だかぼうっとしているようだけれど」

「うん? ああ、いや、少し考え事をしていただけだよ。……それで? その面白いゲームがどうだって?」

「違うよ。転校生の話をしているんだよ。転校生!」

「転校生?」

そんな話、一度も聞いたことがないぞ?

そんなことを思いながら、僕は妹――恵梨香のほうを向いた。

対して、恵梨香も僕の反応を予想外と思ったらしく。

「ん、ん、ん? どったの、どうしたの? もしかして、その反応から見るに、もしかしてあまり情報が流通していないぱたーん? だったら、言わないほうがよかったのかな。ほら、なんというか、学生の間で興奮するイベント、その一つが転校生だよね!」

「転校生はイベントの名前じゃないしそう簡単に興奮なんてしてたまるか。それに、その知識はどこから入手した? その知識はあまりにも歪んでいるぞ」

どうせ、恵梨香とつるんでいるオタク友達のだれかが吹き込んだのだろうけれど。

恵梨香はこういう性格で、来るもの拒まずみたいな性格だから、友達の幅が広い。

誰も嫌わずに、誰も『贔屓』をしない。

それが我が妹、古屋恵梨香の信条だった。

「ねえ、おにーちゃん。さっきから考え事多くない?」

それを聞いて、僕は再び我に返る。

確かに、どこか考え事が多いかもしれない。やはりあの長い夢のせいか――。

「うん。いや、なんでもないよ。別に。さて……。急がないと、遅れてしまうな。走る必要はまだないと思うけれど」

家を出たのは八時三十分。ゆっくり歩いても十五分はかかる計算なので、始業時刻の九時には余裕で間に合う計算だ。

とはいえ学生生活で遅刻なんてもってのほかだと思っている僕にとってはもう少し余裕に登校したいものだった。だから普段はもう五分早く――つまり、八時二十五分に出発して八時四十分までに到着する形――で向かうのが僕のライフスタイルだった。

早く到着したところで何か有意義なことをするわけではない。教室についていつもの仲間と話をしていれば、あっという間に朝のホームルームの始まりだ。十分間のショートホームルームを挟んで、一時間目が開始される。別にショートホームルームで遅刻したところで遅刻にはカウントされないからその時間に参加する学生は七割程度、といったところだろうか。学生にとってもっとも重要なのは、あくまでも授業の単位――ということを体現しているようにも見える。

学校に到着して、恵梨香と別れる。恵梨香は学年的に一つ下にあたるので、階も一個下だ。だから二階で恵梨香と別れたら、三階までの会談は一人で行くことになる。その間に数名の学生とすれ違うけれど、挨拶は少ない。冷めた学生だ、と思われるかもしれないがこれがこの学校の日常だ。それを先生が正そうとしないし、況してや学生から自発的に行動しようなんて思いもしないから、それについてはきっと暫くの間改善されることはないのだろう。

「おっす」

教室に入ると、いつもの仲間の一人である北谷が声をかけてきた。

「おっす、北谷。どうした? お前から声をかけるなんて珍しい」

「そりゃそうよ。聞いたか、タク。何でも今日、転校生がやってくるらしいぜ。しかもこのクラスに!」

そういえば恵梨香がそんなことを言っていたな。

それは今日からだったのか。あまりにも急な話だ。

「……このクラスに? それにしても変な時期だよな。今は七月だぜ?」

「それは別に関係ないだろ。転校生ってパワーワードだよな。それだけで興奮するというか、学生生活が少し変わる感じがしないか?」

……さっき、僕は恵梨香の言葉を否定したが、前言撤回しよう。

まさか『転校生』というワードだけで興奮する奴が目の前に居るとは思いもしなかった。

まあ、取り敢えずその転校生について、やってくる前に情報を集めておくことにするか。そう思って僕は北谷に話しかける。

「ところで、その転校生というのはどういう奴なんだ? どうせ大方情報が来ているんだろ?」

いったいどこから漏れるのか解ったものではないが、転校生の情報は当日の朝までには学生にも八割がた流通している。判明していないのは顔写真くらいじゃないか、ってくらい鮮明だ。

それを聞いた北谷は笑みを浮かべながら、俺に問いかけてくる。

「お? なんだ、やっぱりお前も気になっているんじゃないか。興奮してくるんだろ? 転校生というパワーワードに」

「よせよ。僕はお前とは違う」

「俺を変人扱いするなよ!」

そんないつも通りのやり取りを繰り広げているさなか、始業時刻を知らせるチャイムが鳴り響く。

と同時に、このクラスの担任である来栖川先生が入ってきた。

来栖川先生は赤いジャージを着た女性教員だった。別にこの学校で女性教員なんて珍しい話ではない。忙しいように見えるけれど、部活の顧問も幾つか掛け持ちしているそうだし、しかしながら疲れを見せていない。完璧なキャリアウーマンと言ったところか。

僕は急いで北谷の前にある席に腰かけた。別に何かを用意する必要は無いからな。

「はーい、みなさん。さっさと着席しなさい。……さてと、今日は、薄々感づいているかもしれないけれど、転校生を紹介します。喜べ、男子ども! 転校生は女子だ!」

そう言って来栖川先生は教壇を叩く。

それを聞いた男子学生の盛り上がりといったら絵に描いた餅のようだった。え? 何を言っているのか解らないって? 気取らないで直接的表現で伝えろ、と。成る程、なら簡単に伝えてやろう。今、男子学生と女子学生のテンションには雲泥の差がある。男子学生が天国でクロールしていると思いきや、女子学生はそれを地獄から眺めている――うん。何というか、説明しているうちにテンションの説明が上手く出来なくなってきた。まあ、要は男女の差というのはこういうものか、という話だ。これが逆に男子が転校生だったらある程度テンションの差は逆になっていたと思う。

「よし、それじゃ、入ってきていいぞ」

教室の引き戸が開かれたのは、ちょうどその時だった。

入ってきたのは、少女だった。それもとびっきり冠に美という漢字がつく感じの。

茶色い髪をショートカットにさせ、指定制服であるブレザーを可憐に着こなしている。どこか落ち着かない様子を示しているのは、緊張している証拠だろうか。

まあ、この時点で男子学生たちの心はがしっと鷲掴みにしているわけなのだけれど。

「あ、あの……はじめまして。私は、木葉秋穂といいます。ええと……、お父さんの仕事の関係でこっちに引っ越し的ました。……ええと」

やはり緊張しているようだ。所々言葉に詰まるところがある。

しかしそんなことは男子学生にはマイナスになることはない。寧ろポイントとしてはプラスになっていることだろう。なぜそんなことを言ったかといえば、さっきちらりと後ろを振り向いてみたら北谷がさわやかな笑顔で木葉さんを見つめていたからだ。何というか、お前それ気持ち悪いぞ?

まあ、それは男子学生全員に言える話なのかもしれない。僕はというと、その自己紹介を一つ距離を置いた目で見つめていたわけだが。

「……さて、それでは席は……古屋! お前の隣でいいな?」

いいな、ってそこしか空いていないじゃないですか。選択の余地無し、ってやつだ。

そういうわけで半ば強制的に木葉さんは僕の隣にある空席――これは三か月前に転校した奴の名残だ――に腰掛ける。

おどおどとした様子で僕を見ると、木葉さんは言った。

「えと……よろしくね? 古屋くん」

「ん? ああ、よろしく」

僕は軽く挨拶を交わした。

あとは簡単な業務連絡が来栖川先生から伝えられて、そのままなし崩し的に一時間目の授業へと突入していく。

ええと、一時間目の授業は――国語だったな。教科書とノートを出して……。

「あ、あの。古屋くん?」

そのタイミングで木葉さんが僕に訊ねてきた。

「どうしたの?」

「実は……まだ教科書が届いてなくて、今日だけ教科書を見せてほしくて……」

そう言われてみると木葉さんの机上にはノートと筆記用具しか置かれていなかった。

成る程ね、道理でいつまで経っても教科書を出してこないと思ったら――。

僕は仕方ないと思い、机を近づけてその隙間に教科書を挟み込む。

「これでどうだい?」

「ありがとう。……ええと、もしかしたら解らないことが多々あるかもしれないけれど……」

ちらりと見つめる木葉さん。天然なら、かなりのジゴロな気がする。……ジゴロって男性だけに使っていい単語だったか? まあ、それは別に関係ないのだけれど。

「まあ、聞いてくれればいいよ。もちろん、僕にも解らないこともある。それについては了承してほしいけれど」

「ええ、解っています。……ありがとうございます」

大分緊張も解けてきたのか、話口調も自然になってきたように見える。尤も、その『自然』とはいったいどれを指すのか解らないと言えば解らないけれど。

そうして、一時間目の授業は――少々の波乱が生まれながらも始まるのだった。

 

◇◇◇

 

昼休み。

正確に言えば、昼食時間も含まれているその時間だったが、僕は北谷の机で弁当を広げていた。

「それにしても、お前ラッキーだよな?」

北谷の言葉を聞いて、僕は箸で取っていた里芋を口に持っていくのを止めた。

「何が?」

「何が……って、このタイミングで『ラッキー』と言ったらあれしか無いだろ?」

「何だよ。勿体ぶっている暇があったら、面と向かって口に出したらどうだ? そんな恥ずかしがる仲でも無いだろ?」

「それもそうだが……。ちょっと耳貸せ」

そう言われたので、僕は顔を近づける。そこまで他人に聞かれたくないことなのだろうか。だったら公衆の面前ではなくて帰り道とか、もっといい場所が無いものか。

「お前、さっきいい感じだったじゃんか。木葉さんと」

「……お前、冷静に考えてみろ。何を言っているんだ。普通に会話をして、教科書を持っていないから貸してあげただけの話だぞ。それを『いい感じ』って……。ほとほと呆れるよ、お前と友人の関係を保っていられるのは僕くらいだ」

「ほかにも友人は居るぞ。それに……お前だって似たようなもんじゃねえか。ただのかわいい妹が居るくらいでよ。恵梨香ちゃん、俺にくれよ。要らないだろ?」

「どこの世界に妹を要らないなんて言う兄が居る? 言ってみろよ」

「まあまあ、冗談なんだからさ。本気にとるなよ」

まあ、そうだろうな。

僕だって本気にとっているわけでは無い。北谷の言っていることはいつも冗談めいているからだ。本気でそんなことを言ったことは――たぶん一度も無いだろう。もしかしたら僕がそう思っていないだけで、実は北谷から見れば何回か本気で言ったことがあるのかもしれないが。

「……とにかく、実際のところどうなんだよ、タク。木葉さんは?」

「どう、って……」

ちらり、と木葉さんのほうを見る。

木葉さんは今、すっかり打ち解けている女子軍団と一緒に机を並べて弁当を食べている。弁当箱は俵型で、何でも自分で作っているらしい(盗み聞き――正確には声が大きすぎて教室全体に響き渡った女子の声を聴いて得た知識だ)。

そしてどうやら木葉さんにも妹が居て、その妹を可愛がっているらしい。

「……うん、何というか近いところがあるよ」

「近い? お前と木葉さんが? 性別が違うのに、それじゃあれだよ。えーと……月と鼈?」

「そもそも比較対象じゃねえよ、ミートボールもらい」

僕はひょいと北谷の食べている弁当――こいつはいつも購買から弁当を買ってきている――のミートボールを掬い取った。

「あっ! ずるい! 俺にも何か食わせろ……。えーと、この卵焼きだ!」

そう言って卵焼きを奪い取る北谷。まあ、予定調和の流れだ。別に問題はない。

ちなみに僕の弁当は母が作っている。妹の分も合わせて、だ。毎朝忙しいのに弁当が凝っているから、結構な確率で友人が弁当の中身を見に来ることがある。

今日の弁当はご飯と豚バラ肉を醤油ベースの味付けで焼いたものをミルフィーユ状に重ねたものと、卵焼きや唐揚げにブロッコリーといった感じだった。弁当の中身はこの時間にならないと確認することができないから、楽しみの一つとなっている。

恵梨香は恵梨香で別の弁当を食べているらしい。女子と男子で同じ弁当を作るとどうしても偏りが出てしまうから、材料は一緒でアレンジを加える感じにしているらしい。主婦の知恵、恐れ入ったという感じだ。

「……それにしても、この時期に転校生ってやっぱり何らかの事情があってのものなのかね?」

北谷はまだ転校生の話題で盛り上がりたいようだった。

そんなこと知ったことではなかったが――確かにこの時期に来た、というのはとても気になる。

どうしてこんな時期に来たのだろうか。それだけは北谷の意見に共感出来るし、解決したい疑問の一つだろう。

しかしその理由はプライバシーになってしまうから、そう簡単に聞くことは出来ないだろう。

だから、その疑問については迷宮入りするのが普通なのかもしれない。

「ま、それを本人に聞くことは難しいんじゃないか? 或いは女子経由で聞くとか……。女子だったら、そういうことを聞けているかもしれないだろ。案外、女子ってそういうことにも土足で踏み込むことが出来るし」

「それもそうだな。……あとで三崎に聞いてみるか」

三崎ほのか。

僕たちの共通の友人であり、幼馴染だ。男勝りな性格だから、このクラスの女子のリーダー的役割を担っている。ショートカットでちゃきちゃきとした性格、僕と同じ左利きで笑顔がまぶしい彼女。

それが三崎ほのかだった。

三崎は木葉さんに一番近い席でおにぎりを頬張っている。三崎は母親と二人暮らしだから、弁当を作ってくれる余裕も無い。だからといって彼女は料理が上手いという噂を聞いたこともない。要するにあの不器用な三角錐のおにぎりは彼女本人が握ったものなのだろう。

相変わらず、三崎は男みたいな性格をしていると思う。昔から僕たちと一緒につるんでいたからかもしれないが。本人曰く、いまだにスカートは慣れないと言っていたし。

「じゃあ、それについては帰りにアイツに話をしてみるとするか……。帰りにあそこ行こうぜ。駄菓子屋」

「おっ、いいね。その案、乗った!」

そうして僕たちは互いの右手を、ちょうど腕相撲をするかのように組み合わせるのだった。